その一方、先日購入した「新しい生物の教科書(池田清彦:新潮社)」が死ぬほど面白かった。カネゴンは生物学に暗かったせいもあるが、コンピュータサイエンスの観点から読んでも実に刺激的な内容。著者は「構造主義生物学」とかいうニューアカじみた主義を標榜しているらしく、主義をストレートに打ち出しているので同業者には波紋を呼ぶかもしれない。カネゴンはこれまで、生物学を「潮くさい学問」だとどこかで思いこんでいたようです。謝ります。カネゴンの周りにはバイオ関係が多いので今更かと思いますが【まったくもっておれカネゴン】。

その中で、「私の遺伝子が後世に引き継がれればもう思い残すことはありません」と語ったおばあさんの話を引き合いに出し、遺伝子は今や単なる勘違いの対象のみならず(「利己的な遺伝子」も相当苦々しく思っているらしい。読んだことないけど)、「霊魂とか精霊」と同一視されてすらいると嘆いているくだりがあった。確かに、ハードディスクを指して「これがコンピュータの本質だ」と言えば勘違いとわかるが、遺伝子を指して「これが生命の本質だ」と言っても勘違いであることが気付かれにくいかもしれない。遺伝子は単なるストレージ(倉庫)に過ぎず、それを読みとって活用するシステムの側こそ不思議だ。ただ、コンピュータにはCPUというわかりやすい主体があるからいいが、生命には境界線のはっきりした主体があるわけではないから見えにくいのだと思う。

他にも、「生命にとっては単純化を目指すよりも、複雑になる方が(安易だが)楽だ」という記述があり、カネゴンにとってはシステム設計の話に見えた。生命が複雑に見えるのはそれが高度だからではなく、単に安易に拡張を繰り返した結果ということで、社会システムでもコンピュータでもジャズでもプログレでもWindows XPでもその点は変わらないということか。一方で、システムはあまりに無駄なく機能的に作ると些細なことで簡単にハングアップしてしまうが、無駄が多くとも複雑でゆるい作りシステムの方がトラブルに強いという変なメリットが生じるのではないかとも思ったりする。人体も生命も相当無駄が多く、マエストロ級のハッカーが見たら嘆き悲しむようなダサダサのハックに満ちあふれていたりする。だからこそ、今のPCも将来のために一度勇気を出して無駄な要素を取り除いてみればとも思う。せっかく生命よりは後戻りが利くのだから【舞い上がってるおれカネゴン】。

他にも人工知能がらみの話題として(人工知能そのものについては触れていないが)、脳の内部で一意の因果関係が生じているかどうかをイプシロン・デルタ論法まがいの方法で記述しようとしている茂木健一郎氏の成果についても記述されている部分があり、これまた刺激になる。著者は「むしろこの説は、因果関係が成立していることは脳には適用できても現実には適用できないのではないか」という考えだが、カネゴンとしてはむしろ脳の方が成立しないのではないかと思う。因果関係が成立している要素を組み合わせると因果関係が成立しないものが作られる可能性があるというのは何だか不完全性定理を思わせる。カネゴンは別の考えからもそう思う。現実世界の関数は、理論上の関数と違ってレンジに限りがあることがほとんどのはずだし、完全な写像関係ができているかどうかすら定かでないのではないか。実は「関数」という概念を成立させるには、その前にいろんな前提が必要なはずなのだが、意外にその辺はないがしろにされがちだ。因果関係より先に、各要素(この場合はニューロンか)が関数としてどのぐらい不完全なのかが知りたい【何が何だかおれカネゴン】。生物学は、おそらく数理論理学と出会うことにより大きく発展する可能性があるのではないか。学問も交配を怠ると衰退する。

そしてある意味最も恐ろしいのは「環境問題はつきつめれば人口問題であることが教科書で指摘されていない」という記述。人口問題を語るにあたって誰しも頭をよぎる「間引き」という言葉は、おそらく公の場では当分口にされないと思われる。嗚呼南無阿弥陀仏。間引きを行わずに根本的に解決するには、やはり宇宙進出しかないと思われるが、横山光輝マーズ」のような結末(ハリウッド映画には決してできない救いのないオチ)になってしまう可能性もある。嗚呼南無阿弥陀仏