村上陽一郎の「微分の言い抜け」説。よくはわからないけど、各方面で悪評サクサクらしい【あんたもそのうちおれカネゴン】。そう言えば、カネゴンこの人の授業を取ったことがあった(1回しか出席しなかった)。

微積分は非常に強力な道具であり、それ自体は(本来は)日常生活にも馴染みのある概念であるにもかかわらず、なぜか良くも悪くもお騒がせな一面があったりする。それはきっと、微積分を説明するのに使われる「極限」とか「無限」(←今はこの言葉はある意味タブーみたいだけど)という言葉に解釈の幅がありすぎるせいもあるかもしれない。日常からあまりにかけ離れた数学用語なら、これこれこうですと定義されれば「そうですか」と思うだろうけど、極限とか無限という考え方の片っ方はなまじ日常生活の上に乗っかっている。それだけに、こういう言葉をいくら厳密に定義しても、つい日常側に引き寄せて考えたときに解釈がぶれてしまう。実際、これらの言葉は、とても同じものとは思えないぐらいにバラエティに富んだ定義ができてしまうところを見ても、やはりつまづきの元になっているような気がする【あんただけだろおれカネゴン】。

微積分の原理についてこれまでで最も納得のいく説明は、以前日記にも書いた「限界は微分」に書かれていた。ジョージ・ソロスとタイマン張る宿命にある経済学者のポール・クルーグマンは、「大事なのはこれとこれとこれだけです。後は大事じゃないです」ということを学習塾の先生のようにきっぱりと言い切るけど、それを猿真似すれば、微分の定義で大事なのはおそらく h を最終的に
無視することなんじゃないかと思う。たぶん極限だの無限だのイプシロン-デルタだのは、具体的にどうやってhを無視するかという技術の話で、本質的じゃなかったりして。

微分という人工的な道具が発明されたときに本当にラッキーだったのは、hを無視しても
式全体が消えてしまわずに済んだことだったのではないかと勝手に想像している。実際、hが大きかろうと小さかろうと、hを最後に(ただし最後でないとだめ)無視すると決めてしまえば、得られる結果には変わりはない(偏微分のときはうまくいかないときもあるみたい)。見方を変えればこの定義は、その分母と分子をそれぞれ(極限を取ったりすることで)無視してしまい、分母と分子の
だけは無視しないでちゃっかり手に入れる、と風に考えてしまったら只の危ない奴でしょうか。もちろん、ここでいう比は数字同士の比じゃなくて関数同士の比なんだけど。

カネゴンが勝手に面白がっているのは、ここでは無視する(捨てる)ことによって逆に得られるものがあるということだったりする。一見負けるが勝ちみたいだけど、よく考えればこれに限らずこういうことは意外によく起こる。キャベツの一番外側は使わない方がおいしくなるみたいな。カネゴンも含めて、極限とか導関数でつまづいてしまうのは、あるはずのものを無視する(捨てる)ということについ身体が抵抗してしまうということなのかもしれない。カネゴンはどうやらもったいないお化けに取り憑かれていたらしい。

ということは、hを無視して比を無視しないということさえ保証できれば、他の形でも(たとえば滑らかでない関数とかでも)微分が定義できてしまうことにならないだろうか【それはどうかなおれカネゴン】。ともあれ、1つ納得するのにこんなに大騒ぎしていては到底覚束ない。嗚呼。