「何でも自己決定」の限界(from 圏外さん)。

あらゆる決定事項をぎりぎりまで先延ばしにするカネゴンなので申し訳ないのだけど【迷惑千万おれカネゴン】、海の向こうではカネゴンが想像している以上に「自己決定」はどこか神聖視されているように思えてしまう。何と言うか「自己決定=主人の楽しみ/少々面倒な義務」「自己決定できない=奴隷」という感じで。法の華っぽく言えば「自己決定せんで何が人間か」というところだろうか。

出エジプト記やマトリックスの主題である「主体性の獲得」は、日本での奴隷暮らしにすっかり慣れきってしまったカネゴンからはなかなかその切実さが想像しにくい。奴隷でいれば食うには困らないにもかかわらず、あえて大集団で荒れ野に出てまで主体性を求めるその切実さが、自己決定を神聖なものにしているような気がしている。自分たちに縁のある実際の自己決定は「日本酒にするかビールにするか」程度だけど、あちらでの自己決定は最終的には「他人を生かすか殺すかを決定する」(今なら「あいつはこういう奴だ」と一刀両断に評価を定める)だったりする。昨今は奴隷のこき使い方も抽象性と並列性が高まっているため一個人がまるまる24時間奴隷ということがなくなっていて、皆さまざまな奴隷のマスターでありさまざまな主人のスレーブでもあるので自分が奴隷であることをどうも自覚しにくい【こ奴に鎖をおれカネゴン】。