象徴(シンボル)という言葉がある。特に辞書を参照せずカネゴン定義を参照すると【はなはだ曖昧おれカネゴン】、「本当は『それそのもの』ではないにもかかわらず、まるでそれが『それが表すものそのもの』であるかのように人間社会で機能するもの」ということになる【青臭いとはおれカネゴン】。天皇は国の象徴であり、軍旗は軍のシンボルであり、鉤十字は国家社会主義ドイツ労働者党のシンボルであり、ナニは男のシンボルであり、変数名は変数のシンボルであり、ワールドトレードセンターは急遽超大国の象徴となったりする。肝心なのは、それが「それが表すものそのものではない」というところで、そこのところがカネゴンずっとわかっていなかった。

そしてシンボルはシンボルが表すものそのものではないにもかかわらず、そのシンボルに影響された人間が、後からそれを本当のことにしてしまったりするのでややこしい。そう思うと丑の刻参りも実はシンボル操作だったりする。とっくに誰かが言っていると思うけど、物事にシンボルを見いだす能力が人間と動物の境目かもしれない。動物はリアリズムにしか生きられない。ただカラスは数を数えられるらしく、光り物をコレクションしたりもするので人間に分類しておく【逆ではないかおれカネゴン】。

とにかくシンボルは世の中を単純化する最も強力な手段で、これなしには人間は言語一つ作り得ず、数一つ数えられなかっただろう。物事にシンボルを見いだすとき脳に何が起こっているのやら。強力な分重症のバグも発生しやすいことは言うまでもない【バグそのもののおれカネゴン】。人がシンボルのような抽象的なもののために死ぬことができるのもその一つだけど、戦場が現実の戦場から経済という仮想的な戦場に移動しているので、傍目には何で死んだのかよくわからなかったりする。かといってここまで味をしめてしまった以上、今更抽象化を捨ててリアリズムに生きることもできっこない。最近流行りの多様性という言葉は、シンボル操作をほどほどにしましょうということなのだろうとカネゴン勝手に思っています。