柿の種」に、女子高や学会ごとに人の顔が違っているという現象について言及されていた。日本人と韓国人の顔が違って見えるのもこの延長線ではないかとも。これは考えようによっては、そこまで微妙な顔の違いを人間が見分けることができてしまうということなのだろう。その逆の現象として、西欧人からは東洋人が全部同じに見える、あるいはその逆というのがある。下手をすると、宇宙人から見れば地球人の顔などみんな同じに見えてしまうかもしれない。競馬をやらないカネゴンには馬の顔は全部同じに見えるのに、競馬好きは一頭一頭の顔を空恐ろしいほど把握している。楽器をやらない人には、ギターに種類の違いがあるということすら気付かれていないかもしれない。研究と無縁な生活をしている人にとっては、学者は「学者」というただ一種類しかないと思われている可能性すらある。

一般に、対象が自分に近付けば近付くほどその違いが際だち、離れれば離れるほどその違いがかき消されてしまうということかもしれない。素粒子物理学も実は同じようなもので、対象はちっとも変わっていないのに、目を凝らして見れば見るほど細かな違いがいくらでも目についてしまってきりがないということはないだろうか【休むに似たりのおれカネゴン】。こういう人間の特性から完全に切り離されたところで物理学というのは成立できるのだろうか。現実世界のさまざまな階層を超えて大統一理論を成立させるのは中々大変そう。