どうして嘘をつくと心が苦しくなるのだろう。これまでの経験からして【経験豊富なおれカネゴン】、嘘をつくそのこと自体より、そのために辻褄を合わせ続けないといけない(かつ、それが嘘であることを常に忘れないようにしていないといけない)ことの方が遥かにつらいような気がする。自分の記憶、知識、行動すべてについて、それが自分の嘘にマッチしているかどうか、他のことと矛盾しないかどうかをいちいち照らし合わせないといけなくなってしまう。人間の場合そのプロセスは自動化できないので、嘘をつくことの心苦しさとは、情報処理能力がアップアップしてしまった結果なのだろうか。

よく「オブジェクト指向プログラミングは人間の思考に似ている」みたいなことを言われるけど、それになぞらえるなら、嘘をつくということはベースクラスを書き換えて処理の重たい初期化メソッドを大多数のオブジェクトにうっかり追加してしまったような状態なのだろうか【生兵法とはおれカネゴン】。ということは、辻褄の処理能力がなまじ優れているハイパースレッディングな人は平気で嘘をつき通せたりするのだろうか。

逆に、方便として嘘をつく場合(家族がガンを本人に告知しないなど)、そのために処理能力上の苦しさが生じることによって、嘘をつく側自身の苦痛が軽減されるということはあるかもしれない。方便のために苦しみを引き受けたということで、気持ちが清算されるというか。

よほど単純な人でない限り、誰しも自分の中にたった一つしか秩序の体系がないということはなく、普通はいくつもの秩序を心の中に抱えていて(根っ子はつながっているかもしれない)、場合によってそれらを都合良く使い分けている(=ある秩序で矛盾が生じたら別の秩序にちゃっかり切替える)らしい。でないとテレビドラマを見るたびに全部本当のことだと信じて大騒ぎしてしまうし、映画で人がたくさん殺されるところを平気で見られるはずがない。ところでそういう使い分けが逆に災いしてしまったりすることはないだろうか【災いしたとはおれカネゴン】。

どんなヤクザでも「筋目に合わない」ことを最も嫌うし、「こうなったのは○○人が悪い」みたいに劇的に思考を節約することは広く見られるので、みんな基本的に嘘をつくことが好きではないしオッカムの剃刀が大好きであるということでいいのだろうか【まとまりないとはおれカネゴン】。