書評『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』

  • 第2次世界大戦中、米軍の進級と士気の相関関係を扱った研究でかなり興味深い内容を読んだことがある。空軍兵士の進級率が平均47%で、憲兵隊の進級率24%より高いにもかかわらず、空軍兵士が自分の進級可能性に対して憲兵より悲観的に考え不満を抱いているという事実だった。これは客観的な状況はどうであれ、人は自分を取り巻く条件がよくなるほど期待感が高まり、その期待が満たされない時、周囲の人と比べて一種の剥奪感を感じるということを意味する。まさに「相対的剥奪感(relative deprivation)」の問題だ。


他人との関係において、「平等」に接近すればするほど、そこから外れた時の疎外感が大きくなる。

カネゴンが数学を勉強しなおしたつもりになっていた頃思ったのが【それで書くとはおれカネゴン】、幸福感は現状(を表す関数というものがあればだけど)そのものとは比例せず、現状の微分に比例するような気がして仕方なかった。でもこれも考えてみたら最近の話で、この幸福感は変化を前提としている。幸福感が一種類でないことに当時は気付かなかった。別の種類の幸福感として「昨日/昨年と変わらない今日がある」というものもあったわけで、かつては幸福と言えばこちらを指していたらしいのだけど、知らないうちにパラダイムが脱輪して横に逸れていたということなのだろうか【逸れて帰れぬおれカネゴン】。

あまり関係ないけど、さっき見ていたヒストリーチャンネル日露戦争のことが取り上げられていて、戦争に勝った(実際はすれすれで講和に持ち込んだ)にもかかわらず賠償金が取れなかったということで、都内各地で暴動が発生し、市民が警察などを襲って双方合わせて1000人近い死傷者が発生したとのことで、たった100年前。一般市民が警察を襲うというだけでカネゴンくらくらしてしまうけど、最近そういう勇ましげなニュースを国内で聞かないのは、一人一人の心の底で対流するマントルが心の中の太平洋プレートにじっくりとエネルギーを蓄えている最中だからなのだろうか【カタストロフィーおれカネゴン】。