色川武大は「私の旧約聖書 (中公文庫)」でついうっかり神に挑戦してしまったけれど、その本人ですら、自分の中に手作りの神をしっかり持っていた。しかも、その手作りの神が自分を律してくれていないと生きていくことができなかったことを告白し、自分が作った神は可能な限りいじったり正体を暴いたりしなかったとも白状していた。
もし神を「自分の中にあって、自分を律するもの」と定義すれば、色川武大の神も他の神と同様、立派な神になってしまう。
おととい書いた「ユークリッド幾何学を考える」でも、ある体系1つだけでは決して成立せず、基になる体系とそれを展開したモデルの二本立てでないとやっていけないことが示されていた。ここから勝手に推測すれば、どんな人でも自分の中に何らかの形で(自問自答の相手としての)神がいないとやっていけないということになりはしないだろうか。
同書では、点とか直線は大家体系の中では無定義語としてあり、モデルの方で初めて定義されるものとして扱われていたのだけど、これと同様、定義してはならず、正体を問い詰めてもならない相手が脳内のどこかに必要だったりしないだろうか。
「信用」もこれと似たところがある。すべての人を疑っていたら日常生活が成り立たない。だからこそ、両親だとか上司だとか寺田寅彦だとかみのもんただとか、どこかで誰かを無条件に信用せざるを得ない。どんな科学でも「と学会」でもこれは同じで、あらゆる疑問について自ら実験した人物を除いて、自分が自ら確認していないことについては「あの人が言ったのだから正しいだろう」「この本に書いてあったから正しいだろう」という推測で先に進むしかなかったりする。
もしかすると神については「存在する」とか「存在しない」と議論をすること自体が見当違いで、「神は必要かそうでないか」と問うのが正しかったりするだろうか。だとすれば、神は「いる」とか「いない」ではなく、「必要」なのだと思う。
脳とか意識とかを研究するとき、そろそろこういう視点が必要になってくるのかもしれない。意識がそれ自体で何でも決定して好きなように動けるのではなく、自問自答の相手としての神、自分の中にあって自分を律する神(手っ取り早く言えば良心みたいなもの)とのせめぎあいまたは相互作用があって初めて意識が成立するような気がしないでもない【あの世近づくおれカネゴン】。