色川武大私の旧約聖書」では、出エジプト記で有名な「モーゼとパロ(ファラオ)の魔法合戦」のくだりについて、こんなことを書いていた【またまたそれをおれカネゴン】。例によって記憶から:

モーゼは、エジプトで奴隷となっているユダヤの同胞を救出するようエホバに命令されたことにより、パロの前でさまざまな魔法を行い、ユダヤ人の出国を要求します。たいていの魔法はパロお抱えの魔術師も同じことができるので最初パロは動じなかったが、魔法が「エジプトで生まれた初子を全部殺す」「エジプト全土を三日間真っ暗闇にする」などだんだんしゃれにならなくなるにつれ、次第にモーゼが有利となります。
パロやエジプトの人たちは、モーゼの魔法に苦しめられるたびに「わかった、ユダヤの民はエジプトを出てよろしい」といわざるを得なくなるのですが、モーゼが魔法を引っ込めるとケロリと忘れ、たちまち前言を翻します。このやりとりが、一流のヴォードヴィルを見るように面白い。
そしてエジプトの人々は、これ以上やられると自分たちの命が危ない、というところに追い詰められるまで、何が何でもモーゼの言うことを聞こうとしません。危機が自分たちに実際に降りかかるまで行動しない、そんな人民というものの本質を見事に捉えているように思います。

ついにモーゼたちが大挙してエジプトを出国すると、エジプトの人々は「なんて馬鹿なことをしてしまったのか、奴隷をむざむざ手放すなんて」と、大軍でモーゼたちを追いかけます。
ユダヤの民は軍勢を見て一人残らず震え上がり、「エジプトにはユダヤ人の墓がないから、こんな砂漠に連れてきて私たちを死なせようとしたのですか」と泣きながら口々にモーゼを責めます。モーゼは苦し紛れに「神が何とかしてくださるよ」と言い訳するのですが、エホバはいきなり話を振られて困ったあげく「お前は何で私に向かってものを言うのか。そんなことよりユダヤの民を少しでも前進させないか」と怒りを露わにします。
こういう姿も目に浮かぶようですね。エホバにしても、ユダヤの民から助けを求められたから出てきてやったのに、いざとなると人民はただの依頼心の塊になってしまうのですから。
そして映画でも有名なシーンに突入します。紅海が真っ二つに割れ、エジプト軍がそれに飲み込まれて全滅するのを目の当たりにすると、ユダヤの民は態度をコロリと一転し、神を全面的に賛美するのです。我神をほめたたえん、神万歳。
実にもう何というか、この実際的な筆致は見事です。人間というものの真実の姿をここまで捉えた書物を、私は他に知りません。

こんな読み取り方ができる人がいるということにカネゴンはひたすら驚きまくった【ひれ伏し祈るおれカネゴン】。さすがアンクル・トムの小屋でSMに目覚めた男だけのことはある。