例の読書猿の新しいメールマガジンが届く【狙い打たれたおれカネゴン】。
それについて何か書こうと思ったのだけど、同メルマガのバックナンバーに、カネゴンが最近思っていたことがコンパクトにまとめられていたので思わず引用【瞬時の目移りおれカネゴン】。

「難しい本を読める」という文化資本を持った人は、本を読まない人、読む時間・理由・動機・習慣等々がない人、本を読めない人がいることを、しばしば視野の外に置く。しかし「古典を読むのは当たり前」というのは、誰でもわかるように、ちっとも当たり前ではない(昔の人はもっと本を読んだというのも大ウソである。出版部数や進学率の変遷を見れば、読書家なんてのは人口のごくごく一部でしかなかったことはすぐばれる。連中は自分たち内輪の経験を過度に普遍化しているにすぎない)。
希少なものを「当たり前」にすり替える主張は、自分たちだけが《人間》だと言っているに等しい(一種の詐術だ=社会の中に人々を上下に切り分ける「望ましさ」を繰り返し生み出す、その仕組みの一端でもある)。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/SARU/saru110.html#BOOK1

経済がらみの議論が大好きな人たちを見ていて、誰もこの疑問に答えていないような気がするのはカネゴンの読み取り能力が足りないからなのでしょうか【違うと言えぬおれカネゴン】。