T.D.ミントン著『ここがおかしい日本人の英文法2』という本で、次のような記述があった。甚だ不正確ながら記憶より引用。

For Beautiful Human Life」という、「間違っている英語」として何かと話題にされるカネボウのキャッチコピーがある。(なお著者は、この英語は皆が言うほど絶対的に間違っているとも思えないし、この間違いを話題にすること自体あんまり面白いと思えない)
ところで、「life is beautiful」という叙述的な形容なら何の問題もないのだが、「beautiful life」という限定的な形容は、ネイティブの感覚としておかしく思える。「beautifulな (human) life」というと、その補集合である「beautifulでない(human) life」というものが即座に連想されてしまう。ただでさえネイティブには無味乾燥な科学用語として響く「human life」を「beautifulな」ものと「beautifulでない」ものに分類するということは、かなり妙ちきりんだ。
英語にはこのように、叙述の場合と限定の場合で同じ意味で使うことができない形容詞が山ほどある。

そういえば日本語では「日本は美しい」を「美しい日本」のように順序を変えてもさっぱり限定用法っぽくならない。俳句や和歌で遊びすぎたせいか、日本語の形容詞は名詞でさえあればどんな言葉にくっつけても叙述扱いで問題なく通ってしまうような気がする。ネイティブがbeautiful human lifeという言葉に感じる違和感は、もしかするとカネゴンが「良いおっぱい悪いおっぱい」という言葉を最初に見たときの違和感と近かったりするのだろうか【来た見た触ったおれカネゴン】。
そのせいかどうか、一休さんは師匠から「『美しいもの』を想像した瞬間に、貴様の心には『穢れたもの』が生じているのだ」と喝破されて激しい衝撃を受けたのだけど、もしかするとこの逸話を英語圏の人に話しても彼らにとっては当たり前すぎて何の衝撃も与えられないとしたらどうしよう【会話にならぬおれカネゴン】。