カネゴンはこれまで、「適切な訓練を受ければ、どんな人でも良い文章を書けるようになる」と信じていたのだけれど、少し考えが変わった。文章の文法や構造の良し悪しについては今でもそう思っているし、他人が手を入れることでその面での完成度は確実に高まる。
しかしそれとは別に、文章に徳がある人と、ない人がいる【二分法とはおれカネゴン】。
徳がある人としてカネゴンが真っ先に思いついたのは中野監督。

で、あらゆる職業の基本は「ゲロとウンコを掃除すること」である。

本屋の店員だってOLだってスタイリストだってヤクザだって、最初はまず「店の前に誰かゲロ吐いてるんだけど、○○ちゃん悪いけど掃除してくんない?」だったり「小僧、便所にウンコついてるぞ何とかしろやボケェ」であって、すべての仕事はその上に成り立っているのだ。

人生だって、生まれてまずは「ゲロとウンコを掃除されること」から始まり、終わりもまた同じである。

http://blog.livedoor.jp/n_tko/archives/50960576.html

よく考えると実は非常に強引なのかもしれない一般化を鮮やかに決め、その主張を普遍なものとして読む人を一瞬で魅了し納得させてしまう力。カネゴンはこれを文章の徳として定義してしまう。この徳は、文章の文法エラーや構造のまずさ、筆者の本当の姿とは独立している。
徳のない例はここには書かないのだけど、徳のない文章でこうした一般化を無理して行おうとしても、読む人に何のさざなみも立てないか、我が身可愛さから来る民族差別意識を言い換えただけのものに終わって、読む人に単に不快な思いを残す。