こんな風に、ぼくは、「孤独な数学少年」になってしまったのだ。もうちょっと、詳しくいうと、「数学」と「レイブラッドベリ」と「キングクリムゾン」に首っ丈だけど、どこにも活路がみつからない孤独な少年、という感じである。
(中略)
そんなわけだからぼくは、数学書を書くようになってから読者として意識しているのは、「中学生のときのぼく」である。つまり、編集者用語でいうところの「想定読者」と考えているのは、「孤独な数学少年」たちであり、ぼくは常に、「中学生のときのぼくこそが読みたかったような本」を書くように心がけているのである。

ところが、最近、このスタンスに迷いが出てきてしまった。なぜなら、「孤独な数学少年」なんて、いったい世の中に何人いるんだろう、という疑問が浮上してきたからだ。ぼくの数学本を読んだ人のブログやアマゾンの評を読むと、ぼくが「孤独だったぼく」に向けて書いた部分について、「難しすぎて頭がくらくらする」とか「蛇足だった」とか「いったい誰に向けて書いているんだ」とか言われている。それで揺らぎはじめてしまったのだ。そうか、「中学生のときのぼく」のような読者は、ものすごいマイノリティなんだ、そういう対象に向けて書いても、マジョリティを満足させることができないじゃないか、などという迷いである。

http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20080430

ここにおります【マイナー確定おれカネゴン】。数学の喜びを知ったのは三十路半ばを超えてからですが、小島先生の記述に無駄を感じたことは一度もありません。
売れる本にするには、タイトルに「ガンに効く」または「やせる」を追加するだけでよいです。

 で、今、次の新書を書いているんだけど、それは「数学を使って幸福・平等・自由を語る本」で、そして、「保守的な大人に反抗的で、その上焦がれるほどの数学ファンな中学生だったぼくだったら、きっとウハウハいって読むだろう」本なんだけど、ぐらぐらとその自信の土台が揺らいでしまっているってわけ。

それこそカネゴンが読みたい本であり、お釈迦様やジーザス・クライストやムハンマドに誰も数学を教えてあげなかったのが不幸の始まりだったと確信しているところでもあったりする。