全然まとまっていないけれど書く【そんな試しはおれカネゴン】。
青木雄二という漫画家は生前唯物論者だったそうで、唯物論とは何かと思ってWikipediaを見てもさっぱり要領を得なかったのだけど、要するに織田信長と同じく神や仏を信じない立場だったとのこと。
ところでかれこれ30年ほど前のカネゴンは、当時大好きだった漫画家や音楽家がもし死んでしまったらどのぐらい悲しいのだろうと想像してはあまりの辛さに慌てて打ち消すという一人遊びをよくやっていた【マゾが治らぬカネゴン】。その結果わかったのは、自分が死ぬところを想像するよりも、そういう自分が大好きな人たちが死ぬところを想像することの方がよっぽど辛くてこたえるということだった。ちなみにそのときカネゴンが想像のまないたに載せた人々はまだ誰も死んでいません【おれより先におれカネゴン】。
子供を亡くした親の辛さは、上記の辛さをさらに極端にしたものだろうとカネゴン想像している。そうして悲しみに暮れる親たちに唯物論を持ち出して説得を図るのは、いかにカネゴンが科学を愛していようともちょっとできそうにない【うっかりしかねぬおれカネゴン】。
かのぼくスピノザ先生は、「神には人間のような人格はない」という(一見唯物論っぽいのだけど相当違う)立場を生涯貫き、ついでに生涯独身も貫いていたのだけど【貫けないとはおれカネゴン】、それでも近所に不幸に苦しむ人があれば常に「神がきっと救ってくださる」とちゃっかり慰めていたという。
おそらく親の心境としては、たとえ死んでしまった子供であっても、「それでも何かしてあげたい」というものだとカネゴン思う。そうした親の切ない心を救うのに最もふさわしいのは「「親よりも先に死んだ」という罪で幼児が死後賽の河原で鬼に責め苛まれ、残された親たちが地蔵菩薩に祈ることではじめて幼児たちが救われ、極楽に導いてもらえる」というストーリーなのだと思う。
こうしたストーリーを信じることを非合理と呼ぶ人が特に学生運動が盛んだった頃に多かったらしいのだけど、カネゴンにとってはむしろ実に合理的な行為だとしか思えない。こういう人心のアルゴリズムに見事にフィットする精緻を極めたストーリーを明日までに作れと言われて作れる人が一体何人いるだろうか。
逆に、唯物論の人たちが主張していることは「牛は草を食い、草は土で育つのだから、人間も土を食えば無駄がない」と言っているのと大差ないような気がしてしまう。少なくとも、プログラミングおよび設計という観点から言えば、唯物論のリソース管理とガベージコレクションは実に雑な造りに思える。
この洗練されたストーリーを支えるのは何といっても地獄という存在で、だからこそカネゴンは以前から地獄は人間にとって絶対に必要だとこの日記で何度も書いている【何度も書くのがおれカネゴン】。学習研究社ひみつシリーズで「地獄のひみつ」を出版し、地獄とはどういうところなのかを子供たちにとっくりと図解しなければならない【行き着く先はおれカネゴン】。
やがて人類が宇宙ステーションを足がかりに銀河系全体に進出するにあたり、今のところ地球ローカルな概念である地獄をグローバル化して「天獄」ないしは「宙獄」という概念を一刻も早く打ち立て、無重力の宇宙空間で増殖する子孫たちにとっくりと教えられるよう備えておかなければならない【阿鼻と叫喚おれカネゴン】。