数学の道が閉ざされるとき

この映画を観て、いたたまれなかったのは、石神の数学へのひたすらの愛と、道が閉ざされたことへの絶望が、とてもとてもとてもよくわかるからである。数学を志した多くの人は、かなり早期に、つまり少年期に、数学に目覚めている場合が多い。そして、ほとんどの場合、数学以外の将来を考えたことがない。数学がなくなれば、人生のすべてが失われてしまう。数学のない人生は、全くの無意味なものだと思いこんでいる。ぼくが数学に目覚めたのは、中学1年のときだが、それから10年にわたって、数学者以外の将来を考えたことがなかった。数学から遠い人生など、何の意味もない人生だと思っていた。数学だけが、価値あるたった一つのものだった。だから、数学の道が閉ざされたときのぼくの失意は、石神のそれと同じである、と思えた。

http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20081202

詳しくは書かないのだけど、この日記を書き始める少し前であるほぼ10年前、カネゴンもまったく違う意味で絶望しまくっていたのを思い出す【関係ないとはおれカネゴン】。
その当時のカネゴンは、いろいろあって、自分によいところを何一つ見出せなくなり、自分を一刻も早く消し去りたい衝動と日々抗うことにエネルギーを100%消費していて、呼吸をすることすら時々忘れていた【どんどん底おれカネゴン】。そんな自分をどうにかして一時的にでも慰めようとしても、カネゴンの肩に止まった鳥が決してそれを許してくれない。生半可な慰めやセラピーなどまったく役に立たない。手っ取り早く救われる道などどこにもないことは、その時点でさんざん思い知っていた。
そんなカネゴンが何やかやで10年近くここまで生き延びられたことについて、何か特効薬があったかというと、振り返ってみれば結局何もなかったことに今気付いた【そして忘れるおれカネゴン】。