平沢進がどこかでこんなようなことを言っていた。

マチュアですら今やハードディスク・レコーダーのチャンネルが16chになり、24chになり、たいそう便利な時代になりました。しかし、あえてそのうちの4chしか使わずに音楽を制作すると、なぜかとても良いものができるのでございます。

今気付いたのだけど、平沢進の口調だけは村西監督とそっくりだったりする。
シンセサイザーが登場したときにも同じようなことがあったのだけど、「何でもできる」とか「何をしても良い」などと言われると、かえって何をしてよいのかがわからなくなってしまったりする【わからぬままのおれカネゴン】。
このように自由度が高すぎる創作過程では、むしろ何らかの形で自分で自分に制約を与えることが極めて重要だったりする。「テーマを決める」というのも実は同じことで、創作のエネルギーが外向きに出現するときに、そこに何らかの非対称性を持ち込むことに相当する。
それと似たような現象として、自分一人の動機のみに基づいて何から何まで存分に作ったものより、頼まれ仕事でちゃっちゃと作り上げたものの方が後になってよい仕事になることがしばしばあったりする。
「何でもできる」「何でも弾けるように練習する」のように全方位的に表現の対称性が保たれてしまうと、結局そこには何の動きも生じない。そこに動きを生じさせるためには、対称性を自発的に破るか偏りを外部から持ち込むことが不可欠という結論でよいだろうか【そして寝るとはおれカネゴン】。