超球理論

(重要なので珍しくタイトルをつける)
超球理論
かの超ひも理論に取って代わろうとする野心的な理論。数式を抑えた書き方になってはいるのだけど、実に説得力がある。またいつものように勘違いかもしれないのだけど、カネゴンは人間らしく、まずこの理論のどこか一つぐらいは何らかの本質を突いていることを即座に確信し、それからその理由を考えることにします【結局飛びつくおれカネゴン】。以下はまとまらないうちのメモ。
球という言葉が使われてはいるのだけど、この宇宙の基本構成要素が球であるかどうかというのは実はあまり重要ではなさそう。むしろカネゴンとしては「新エーテル説」または「(文字通りの意味での)ドミノ理論」とでも呼びたいところなのだけど、エーテルという言葉の古くささが誤解を招きそうなのも確かなので、著者に従って超球という言葉を使う。
理論の肝は、「真空とは(物質ではない)エーテルである」というもので、そのエーテルを構成している何物かが、(バネがついていてまた元に戻るような)ドミノ倒しのごとく、エネルギーを周りに伝え、それが粒子の運動のように見えるというもの。なので、次から次に点滅する豆電球が動いているように見えて実は動いていないように、素粒子は実は運動しておらず、エーテルの点滅が見かけ上粒子の運動のように見えていると考える。
というのも、カネゴン自身、ここで言及されている「真空とは(物質ではない)エーテルである」という考えにこれまで何度も取り付かれていたりするので【病気が治らぬおれカネゴン】。
この理論の1つの強みは、「素粒子は互いに区別できない」という基本的な性質を実に自然に説明できることにあるとカネゴン考えてしまう。素粒子は実は運動しておらず、実はエネルギーが移動しているだけなのだとしたら、そこに今ある素粒子Xが、さっきまですぐそばにあった素粒子Aと素粒子Bのどちらだったのかということは本質的に区別しようがなくなる。
もしエーテルの各要素が球状だとしたら、それが空間にぎっしりと詰まっていることになるわけなので、ケプラー以来の球の詰め込み問題的な理由によって、素粒子の運動の方向にわずかな非対称性が生じてしまうような気がする。この非対称性が存在するかどうかは実験で検証できそうな気がする。
あとこれはカネゴンの考えなのだけど、この新エーテルの濃度は宇宙の場所によってすごく異なるような気がする。もしこのエーテルが宇宙全体で同じ濃度で存在したら、今や復活の見込みのほとんどない絶対空間が再び出現してしまうことになり、都合が悪い。新エーテルの分布がひどくまばらだとしたら、そこはとりあえず無視できそうな気がする。実は、通常の物質の周りにだけこの新エーテルがひっそりと集まり、それを舞台として物質の様々な現象が発生していたりして。そしてそれが実はダークマターだかダークエネルギーだったりしたらどうしよう【どうもせぬとはおれカネゴン】。