反ロスチャイルド同盟というサイトをついつい読んでしまう【陰謀暇なしおれカネゴン】。要するにロスチャイルドユダヤが世界を裏から操ってどうこうということらしい。出典があんまり明記されていないのでよくわからないのだけど、この程度のことなら色川武大旧約聖書から既に読み取っているような気がする。以下「私の旧約聖書」より(多少改訂)。

アブラハムという人物も、真面目で実直そうな反面、世事に長けているとこもあって、旧約聖書に登場する人物は、アブラハムばかりでなく、いずれもどこか食えない、こすっからいところを持っています。気候風土のわるい土地で、鷹揚には生きられない民族性の反映でしょうね。
「もう老いぼれて、子供もないし、私の血はまもなく絶えてしまう。イェホバさんは私を幸せにするとおっしゃいましたが、そりゃいったいどういうものなんですか」
鋭い質問をするアブラハムですから、その質問のおかげで授かった子(イサク)を、燔祭として捧げなさい、とイェホバ氏にいわれたときに、何を思ったでしょう。
旧約聖書には、このときのアブラハムの内面がつまびらかには記してありません。表面の記述では、ひたすら神を恐れ、神のためにはようやく授かった一人息子さえ惜しまぬ感じですけれども、はたしてどうでしょうか。
イサクは年寄りの初子で、アブラハムはその子を溺愛します。あまりの溺愛ぶり、幸せそうな姿に、イェホバ氏が妬むのです。この幸せは自分が約束した図柄ではありませんから。ここでアブラハムに幸せになられては、イェホバ氏の立つ瀬がないというわけか。いや、好んで意地悪な見方をしているわけではありません。これは実に人間臭い、すばらしい話です。旧約聖書の実にすぐれた特長の一つは、神という架空の物を登場させ、人間と神との葛藤でありながら、まことに具体的で、人間の臭いに満ちているのですね。
そして何食わぬ顔で、神の命じるままに一人息子を縛り、生け贄としていまや刀を振り下ろそうとする。その表情は、息子を材料に大きな賭けをしている者のそれではありますまいか
愛する息子をここで手にかけて殺してしまえば、以前の質問の時点にまた立ち返ることになる。息子が死に、アブラハムの不充足が満たされないとすると、つまり、神の存在を立証することが難しくなるのですよ、それでもあんたは息子の命を奪うのですか、という無言の質問が、アブラハムの態度から発せられていたとすると、イェホバ氏も困るのですね。
息子の生命は、この場合イェホバ氏の生命と同じことになるのでして、
「ちょっと待て、なるほどお前は神を恐れる男だ、その心底、たしかに見届けた」
などというイェホバ氏のセリフのだらしなさ
そういうしのぎ合いの情景としてみても、この挿話は傑作に思えます。

(イサクの子エサウとヤコブの諍いを紹介して)

どうも実に、こすっからい者の勝ちという乾いた話ですが、この要素はこれまでも随所にひそんでおりましたし、この後もそうなのです。
父イサクも、弟(ヤコブ)の卑劣さを嫌うよりは、兄(エサウ)のお人好しをさげすんで、弟にすべてを譲り渡してしまいます。ここではそのことが実にはっきり教訓として記されているのです。
(中略)
まあそれはともかく、家督を譲るときのポイントは、能力、でして、イサク一家の場合も、勇気と体力にまさる兄よりも、こすっからい弟の価値を上にするというところが面白い。
私などが偉そうにいうまでもなく、資本主義はまたの名を能力主義といわれているようですが、旧約の民たちも終始能力主義で、そのことは西欧の人々の根幹になっているともいえましょうね。
聖書が、キリスト教文化社会ばかりでなく、広く社会主義共産主義からファシズムにいたるまでを含めて源泉になっているようにいわれるのは、ここのところにあるのでしょう。

(モーセの後を継いだヨシュアについて)

ヨシュア君は、いわば戦時内閣のようなもので、というのはカナンの地の入り口まで来てみたけれど、そこには先住民がいるから、これを蹴散らさなければなりません。
(中略)強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない、おののいてはならない、神がいつもついているぞ。
こういうことをいいたてまくり、神との契約の箱を先頭に立てて、ヨルダン河をいっせいに渡ったのです。例の葦の海の奇跡と同じく、このときもヨルダンの河の水が、彼らが渡る間、いっせいに干いたといいます。
先住民たちの方にもそれぞれ神がいて、何かしていたのでしょうが、それは旧約には記してありません。ともかく、イェホバさんの気合いがまさっていたのでしょう。こういう場合、観念性の濃い方が気勢があがって勇敢になるのは当然で、第二次大戦前半の日本軍のごとく、向かうところ敵なしです。
ていのいいどころか、まったくの侵略ですが、この部分の記述もセンチメンタルでなくって、ただもう事実を断乎として記してあるという感じなのです。
なにしろ、荒野を遍歴している頃、山地の部族と闘って、男子を殺し、女子供は捕えて帰ってくると、なぜ皆殺しにしてこない、とイェホバ氏に怒られたぐらいですから、今度は一つの町を奪うたびに、町を焼き、土地の人間は皆殺し、銅や鉄などの宝物を奪って、元からあるものは何も残さない。
こうやって町々を奪うたびに、恐怖のニュースが方々に伝わるのですから、カナンの人たちが浮き足立つのもむりはありません。