引用が止まらない。

旧約に話を戻しますが、この書物の特徴は、私たちが概念として持っているような道徳観がほとんどありません。
ただ一点、神と人間との契約、これが根幹になっておりますから、双方が、つまり神も人間も、その契約を守っているかどうか、これが問題なのです。人間は、神に対して違反し、その尊崇を捨て去ってはならない。それから、神も、人間と約束したことを履行しなければならない。もし神が約束を忘れれば、神という存在もたちどころに無に帰してしまうのです
旧約が述べている道徳とは、これ以外にないのですね。これが、非常に気持ちがいい。読んでいて、清潔感すら感じてしまいます。私たちが概念として持っている清潔なんてものは、ただのセンチメンタリズムか、自己容認にしかすぎないとさえ思えるのです。
気持ちがよいけれど、さて実行するとなると、なかなか冷徹な能力が必要ですね。能力はオールラウンドに、道徳は一点集中で。
たとえばヤコブの狡猾さなどというものは、生存競争の烈しい砂漠での、当然の能力なのですね。なぜ、能力として評価されるかというと、人間社会の葛藤の段階だからです。人間が人間を裏切るな、などという契約はまったくしておりませんから。神が、というより、神との契約になぞらえて、人間たちがかかげた大目標は、自分たちがいかに繁栄していくか、なのですね。そのためなら、他の部族、奴隷、羊やらくだなど、どうなったってかまわないのです
正直ですねぇ。であるとともに、部族をまとめていく説得力などというものは、いつもこのように、現実的でないと効力がともなわないのですね。
たとえば、アダムとイヴが、禁断の木の実を食べた、あれがどうして歓迎されないのかというと、ただ一点、神との約束を破ったからなのですね。その他の心証は関係ないのです。そういうところが、旧約聖書というのは首尾一貫、みじんも崩れません。