こびとさんを大切に

私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。
「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。
暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。
それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。
「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。
けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。
「こびとさん」が餓死してしまったのである。
知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
「自分にできること」はいつだってできる。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。
私が基礎ゼミの学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。
それは同じ台所を夜と昼で使い分けをしている二組のクルーの関係に似ている。
昼のクルーがゴミを散らかし、腐った食材を置きっぱなしにし、調味料が切れても買い足ししておかないと、夜来た「こびとさん」たちは仕事がしにくくて困るだろう。
だから、自分のパートが終わるときには、「こびとさん」のためにちゃんとお掃除をしておいた方がいい。
そういう気遣いを自分自身の知性の「二重底の下の世界」でこつこつ働いている「何か」に対して示すこと。
それはほんとうに、ほんとうにたいせつなことなのである。
そんなことを言ってもわからない人にはぜんぜんわからないだろうけれど。

http://blog.tatsuru.com/2009/10/03_1726.php

この「こびとさん」を、カネゴンは「ご先祖様」と呼んでおりました。実はカネゴンのこの日記は、カネゴンが書いているのではなく、ご先祖様が書かせているのでした【二人羽織のおれカネゴン】。