先日いただいた「星新一 一〇〇一話をつくった人」という本があまりに面白くて一息に読む【むせて咳き込むおれカネゴン】。作者がSFに毒されていないところがカネゴン的にありがたい。
藤子・F・不二雄といい星新一といい、短編の切れ味がこういう形で鋭い人はどこか年齢に比べて幼いというか稚気を隠しきれないところがあるような気がしてしまう。それというのも、こうした作品を作るのに最も重要なのは「他人が大事にしているものを大事にしない」ことであり、他人が深々と腰掛けてその存在すら忘れているソファの足を唐突にへし折ることでもあり、がまんできずにそういういたずらをかましてしまうためには大人成分はどうしても邪魔になってしまうからなのかもしれない【もしや今でもおれカネゴン】。
同書内で星新一が最も影響を受けた本として「空想自然科学入門 (ハヤカワ文庫 NF 21 アシモフの科学エッセイ 1)」を挙げていたのだけど、白状するとカネゴンも繭(浪人中)に繰り返し繰り返し読みふけったのがまさにこのアシモフのシリーズだったりした。アシモフの科学エッセイやブラウンの短編は、世の人々が無意識に握りしめて離さない常識というものに後ろからひざかっくんをかますためのありとあらゆる暗黒秘法を、まったくそれと自覚せずに読者に摺り込むという、非常にわかりにくくたちの悪い遅効性の毒気に満ち満ちている。そのおかげなのか何なのか、カネゴンもこうしていい年になって星新一の放言まがいの日記を書くようになってしまっていた【石見銀山おれカネゴン】。
カネゴンもご多分に漏れず藤子・F・不二雄星新一は幼虫(小中)の頃に読みまくったのだけど、あるとき二人の作品のパステルカラーのごとき日当たりの良い作風の底にひっそりと息を潜めてこちらを窺っている、単なる毒気とは根本的に異なる、マントル対流のように熱くどろどろとした底知れないダークさ加減と渦巻く人間不信が急に耐えられなくなって読めなくなった時期があった。
同書の後半で描写される星新一の老境侘しい姿は、仰々しい描写はまったくないにもかかわらずあまりに痛々しい。よく考えれば当然なのだけど、まだ関係者がたくさん生きていることもあり、彼の様々な失態に関する具体的な描写はかなり控えられていることが想像できる。カネゴンも年をとったらこんなふうにじたばたし、自分で生産した毒が自分に回ってそれが元でひっくり返ってしまうのだろうか【おしめとよだれとおれカネゴン】。