到底まとまりそうにないのだけど、「私と仕事とどっちが大事なの」という無茶な比較になぞらえて【仕事が大事なおれカネゴン】、「未来少年コナン旧約聖書とどっちが面白いの」と自分に問いかけてみる【治らぬ病とおれカネゴン】。
前者は最初から最後まで極太のストーリーが青筋を立てて走り抜け、微塵も揺るぐことがない。後者は時代も地域もばらばらのストーリーの寄せ集めで、登場人物は多過ぎ、セリフも冗長で、そのままでは説教臭さが前面に出すぎて決してディズニー/Pixarの脚本として採用されることがない。
しかしながら前者の長所はそれはそれで思わぬ作用を引き起こしてしまったりもする。あまりにも完結していて、後世の人々がいじろうとしてもどうにもやりにくい。空中にくるりと描いた曲線がはらはらさせるような複雑極まる動きをしながらもとの出発点に同じ角度で見事に接続し、しかもフラクタルのごとく部分と全体がそれぞれまったく同じ描線を描いているような塩梅なのだけど、出発時の角度は割り切れる有理数だったりする。完成度があまりに高いがために、DVDボックスを発売しても本体作品以外のおまけを追加しにくい。
後者では出発点から描かれた曲線の角度は皆無理数で、一度も出発点にきれいに戻ることがない。その代わり、曲線の描画はいつまでたっても止まることがなく、くるくると進み続ける描線の細部を眺めているうちにふと全体に目をやると、いつの間にかだまし絵のようにまったく違う絵が浮かび上がってきたりする。しかもそのだまし絵が今度はロールシャッハテストかUFOの目撃談のごとく、読む人によって全然違うものに見えてしまったりなんかもする。そのため、後世の人は絡まりまくった曲線たちの中から好みのものを思い思いに延長し、そのたびにまったく違う絵が現れるところを眺めたり初期値を変えて実験したりしていつまでも一人遊びを楽しめたりなんかする【暗い遊びとおれカネゴン】。
話は変わるのだけど、俳句や短歌は、こんな具合に少ないパラメーターでいかに長持ちし、なかなか元の場所に戻ってこない曲線を描けるかということを競い合うものだとカネゴン勝手に理解している。その逆に、昔SPA!という雑誌で「そのまんま川柳」というコーナーがあってそこだけ読んでたりしたのだけど、あれは一回くるりと輪を描いた線がストンと元の場所に戻っておしまいというところがおかしかったのだとこれまたカネゴン勝手に理解している【そうして生きるおれカネゴン】。
うまく言えないのだけど、平沢進の音楽はファンがいじって初めて作品として完了するみたいに、後者はテンプレートまたはプロトタイプまたはRuby on Railsのようなフレームワークとしてあり続けているのかもしれない。