世の中の漫画家を大きく二つに分けると、女の子のパンツを描くのが好きな人と嫌いな人に分かれるのだけど、久米田康治は明らかにそれが好きでないというか女の子のパンツとかどうでもいいと思っているタイプに該当する【どうでもよくないおれカネゴン】。「絶望先生」に登場する女の子たちのスカートが常にめくれ気味になっているのが、完全に記号化かつルーチンワーク化していたところにそれが現れている。
世界の他のどこの国にもない日本だけの漫画・アニメの特徴として、女の子のパンツをさまざまな形で手を変え品を変え念入りに表現するというのがあり、最早伝統芸の域に達している。人類史上、これほどまでに執拗に女の子のパンツが描写され続けている時代がかつてあったであろうか【演説台とおれカネゴン】。
カネゴンが推測するに、おそらく70年代初頭ぐらいに女の子のパンツを一瞬だけ描くとどういうわけか子どもたちの間で人気が高まることが発見され(最初に発見されたのはアニメまたは特撮界隈だった可能性がある)、食うのに必死だった制作陣は、半分おまじないというか神通力も期待して、こぞってパンツを導入したのだと思われる。何しろ「ウケなければ死あるのみ」の非情極まる世界につき、ためらってなどいられるはずもない。
考えるだけで悍ましいのだけど、不遇をかこった紙芝居時代の水木しげるも、もし当時にパンツの神通力に気付いていれば生き延びるためにパンツを毎ページ連発しまくったに違いない【Wish he wereおれカネゴン】。
藤子・F・不二雄の漫画でパンツ描写が出現したのはよく見ると割りと晩年のことで【よく見て観察おれカネゴン】、当初は業界の裏セオリーとして渋々導入されたのが、本人も意外に悪くないと思ったのか、ストーリーと何の関係もなくパンツが恒常的に描かれるようになったと推測される。トキワ荘界隈でパンツに開眼したのは彼一人だったというのは特筆してよい。
以来隠し味だったりルーチンワークだったり全面フィーチャーだったりしつつも紙面やブラウン管や液晶画面に女の子のパンツが舞い踊らない日はなかったりする。そしてそうとも知らずパンツのシャワーを大量に浴び続けた日本の男の子たちのメンタリティに人類史上かつてなかった大規模な変化がじわじわと生じ始める【最も浴びたおれカネゴン】。その影響の大きさたるや、放射能環境ホルモンなど屁ほどですらない。
ところで、パンツを描くかどうかというのは漫画家/アニメ作家にとって極めて大きな選択となる。一度描いてしまえば、その作家はパンツ漫画家としてのレッテルを貼られたまま残りの一生を過ごすことになる。パンツを描くと作家として大物になりにくいという経験則もあり、また生まれつきパンツを描くことを好まない作家も数多い。以下思い付くまま。

  • きうちかずひろ: (昔のインタビューで)「デビュー前の持ち込み時代、女の子のパンツ描けって編集者から言われて、嫌だなと思いました。」
  • 村上もとか: この人はあれほど絵が上手でありながら、女の子のパンツを描くことだけはどういうわけか下手で、少しも色っぽくならない。にもかかわらず、10年に一度ぐらい「今度こそは」とそっと描いてみては失敗している。育ちの良さまたは潜在意識がパンツを描くことを拒否しているのかもしれない。
  • 浦沢直樹: 20世紀少年をたまたま読んでみると、ごく最初期だけパンツが描かれていたのがその後二度と描かれてない様子。パンツを描くのはプライドが許さないタイプ。
  • 池上遼一: 刺青は常に全身全霊を込めて描くのに、女性の下着の描き方は非常にぞんざいというか投げやり。パンツどころかブラジャーすらめったに描こうとしない。なるべく描かずに済まそうとしている。
  • 叶精作: 明らかに女性そのものより下着を描くことに夢中になっている。その一方で刺青の描き方が非常にぞんざい。池上遼一と好対照。
  • 吾妻ひでお: その種の漫画で一世を風靡したにもかかわらず、実は下着に大して関心がなく、インタビューでもそう語っていた。今となってはすっかり古い絵柄になってしまったところがわけもなく身につまされる。
  • 諸星大二郎: もうあきれるぐらい女の子のパンツに関心がない。二三度描いたことはあると思われるが、本人はおそらく何も思い出せないであろう。