大槻先生のブログを読んで何となく思ったこと【思うでないとはおれカネゴン】:
科学と対立するものはオカルトとか新興宗教とかニセ科学とか枚挙に暇がないのだけど【後者が故郷おれカネゴン】、前者が苦手とするものがあるとすれば、自分のちっぽけな人生に意味を与えてくれること、言い換えれば「(どんなしょうもない方法でも構わないから)その人の人生を特別扱いしてくれること」だったりする。
というのも、(発見者や発明者を除いては)何事であろうと何びとであろうと特別扱いしない/してはならないという方法論そのものが科学だったりするので、先祖の因縁や失業や痴話喧嘩やヤクザな身内や働かない旦那や働かない親や働かない子供や寝たきりの家族に苦しむ誰かを(何の努力も要求せずに)特別扱いして慰めてあげたり、思わずぐっとくるような優しい言葉をかけてやったりするというのはどうしても苦手にならざるを得ない【単に苦手のおれカネゴン】。
さらに、前者と後者の争いのレイヤはまったく違っていて、論争で勝った負けたとかやっていても実はどうしようもなく互いにすれ違ってしまっていたりする。
そういうわけで、科学がニセ科学やオカルトに本当の意味で勝利するためには、そうした連中などおよびもつかないぐらい人気と客とお金を集めまくり、それを元手に楽勝でグラビアアイドルやスチュワーデスや女子アナと結婚して彼らの頬を悔し涙で濡らす以外にないような気がするのだけど、また何か、まずいことを書いてしまっただろうか【カリスマバーゲンおれカネゴン】。

言い換えれば、科学に携わる者が彼らに対抗するのであれば、ほんのちょっとでいいから優しい言葉をかける練習をするだけでかなり違ってくると思う【足らぬ訓練おれカネゴン】。なお、優しい言葉をかけるべき相手は彼らではなく、客の方です。小島先生はまさにそれを実践している。

カネゴンの知る限りでは、古今東西で最も「科学の徒」にふさわしい人物といえばたぶん大村益次郎に尽きる。
カネゴンが漫喫で読んだ風雲児たちのみを資料とする限りでは、大村益次郎は「絶対に本当のことしか言わない」人物であったらしい。まるで白雪姫の継母が所有する鏡のように、さくさく淡々ずばずばと本当のことを言う。その徹底ぶりたるや、某バルカン人の比ではない。

この上野戦争の軍議で薩摩の海江田信義と対立、西郷が仲介に入る場面があった。この席上で大村が発した「君はいくさを知らぬ」の一言に、海江田信義が尋常ではない怒りを見せたこと等が、海江田による大村暗殺関与説の根拠となっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E#.E6.88.8A.E8.BE.B0.E6.88.A6.E4.BA.89

この「君はいくさを知らぬ」という発言も、きっと中傷でも讒謗でも軽蔑でもなく、そして何の悪気も悪意も茶目っ気もいたずら心もなく、単に「それが事実だから言ったまで」なのだろうと思う。そして相手の海江田某がそのことで怒り狂ったのも、それがずばり本当のことであり、大命中の図星金星のラッキーストライククリティカルヒットだったからなのだろうとカネゴン想像。
ああ大村益次郎ほど科学の徒と呼ぶにふさわしい人物が他にいるだろうか【ふさわしからぬおれカネゴン】。「本当のこと」ほど言われた相手を怒り狂わせ、第三者にとっては(言った本人にとっても期せずして)最も上質のギャグになりうるものは他にカネゴン思いつきません。

カネゴンの積年の大疑問は「人はなぜ本当のことを言われると怒るのか」なのだけど【たびたび実践おれカネゴン】、いつかそのうちここにも科学のメスが入るときがくると信じることにする【そして寝るとはおれカネゴン】。

佐藤郁郎「私説・統計学(非正規分布統計学のすすめ)」。

統計解析とは基準値からのずれを本物とみなすべきか,統計的誤差範囲内とみなすべきかを客観的な基準によって判定する方法ですが,それに数値解析(ノイズによって歪められた情報の中からシグナルを検出する方法)の技法を組み合わせることによって,母集団分布が正規分布とならない場合においても精度保証が可能になります.これによって,データ解析の基盤をさらに拡大させることができます.
(中略)
正規分布確率密度関数は複雑そうに見えますが,一般的な誤差の分布関数として導かれたものであって,自然界において普遍的な分布とされています.また,母集団分布が正規分布でなくても標本が大きくなると標本平均値の分布は次第に正規分布に近づく(中心極限定理)や正規分布をする変数どうしの和と差はまた正規分布になる(再生性)など,非常に扱いやすい性質をもっています.
(中略)
それでは「正規分布でなく,しかも分布形が違うときに,位置やバラツキ,形の違いを検出できる方法はないだろうか?」という問題が提起させるのは自然な成り行きでしょう.
 このような状況に遭遇したとき,個人個人の性格がズバリ現れます.それは性格というよりもデータ解析に対するフィロソフィーといってもよいのですが,厳密に考えようとするひと,前提条件を無視して旧来の方法を無理矢理適用するひと,何も考えないひと・・

http://www.geocities.jp/ikuro_kotaro/koramu/toukei3.htm

この短い文章に、カネゴンの知りたかったことがぎっしり詰まっている。

  • 統計解析の本質とは、ずばり「基準値からのずれを本物とみなすべきか,統計的誤差範囲内とみなすべきかを客観的な基準によって判定する方法」なのだということ
  • 母集団分布が正規分布とならない場合があるということ
  • 正規分布は、それが事実であるから採用されているのではなく、さまざまな分布のうちで何かと扱いやすい性質を持っているから採用されているのだということ。
  • 統計の基準は客観的であっても、統計というツールを扱う肝心な人間の側にものすごいばらつきがあるということ。

その人間側の扱いのばらつきがこれまた正規分布していなかったりしたらどうしよう。

カネゴンが以前から疑問に思っていたにもかかわらず恥ずかしくて誰にも尋ねられなかったのが【いい年こいておれカネゴン】、「誰も実際には調べきれていないはずの母集団の分布が、どうして正規分布しているとわかるのか」ということだった。
対象データの量が多すぎたりデータをもれなく調べるのが極端に困難だったりするからこそ、統計という手段で部分から全体(母集団)を推測するしかないはずなのだけど【葦の髄からおれカネゴン】、カネゴンがこれまで見てきた統計の教科書では分布はもう正規しかありえないような感じで書かれていて、母集団が実は正規分布でなかったら便所に行って泣くしかないのだろうかとカネゴン不安で先に進めなかった。いずれにしろ統計という手法はまだまだ発展途上であることを痛感【止まった発展おれカネゴン】。