新しい大統領があまりにも立派な人で、カネゴン自分が恥ずかしくてたまらなくなる【土下座終われぬおれカネゴン】。
とっくにたとえられているかもしれないのだけど、新大統領がどことなくヤコブの子ヨゼフに見えてしまう。またしても色川武大「私の旧約聖書」より記憶から。

ヨゼフは父ヤコブから猫かわいがりされたために兄弟の嫉妬を買い、奴隷としてエジプトに売り飛ばされますが、才覚を発揮して家令の立場に出世します。その家の妻がヨゼフに言い寄りますがなびかなかったために投獄されますが、それがかえって出世のきっかけとなり、得意の予知能力を発揮してついには宰相の地位にまで上り詰めます。
ヨゼフの実力なら、パロに取って代わることもできたでしょうが、それをしなかったのは、一つにはヨゼフには外国人という引け目があったからかもしれません。
外国人はその土地では主流派にはなれないので、ひたすら実務の才能を発揮して勤め続けなければなりません。それを考えると、ヨゼフを宰相に任命したパロもなかなかやるなという感じです。
ヨゼフは粉骨砕身、パロのために尽くします。7年の飢饉が激しくなると、人民が穀物を求めてエジプトに続々と集まります。ついには穀物を買う金も尽き、人民は家畜をパロに差し出して、その代償に穀物をもらいます。
それもなくなると、ついには人民は土地と自らをパロに差し出して奴隷となり、その代償に穀物をもらいます。こうして、ヨゼフは家畜も土地も人民も、すっかりパロのものにしてしまいます。

日本の内閣や議会にも、プロ野球みたいな外国人枠を定めることを誰か計画していたりするだろうか。

芸術とは、我らが隣人の営為である。作品鑑賞の際に、この前提を失念してはならない。
 若い頃は、常人には及びもつかない天賦の才に恵まれた者だけが、芸術作品を制作できると信じていた。それ故、欠点が目に付くと、どうしても批判的にならざるを得なかった。天才なら完璧なものを作れと。しかし、今でははっきりとわかる。芸術作品の大半は、知性も感性も、一般市民とそう大して変わらぬ者たちが苦労して作り上げているのだと。どうしても意に満たぬ所、技巧の及ばぬ点が現れてしまう。これは、人間の営為である以上、必然的な結果であり、責めるわけにはいかない。むしろ、作品を鑑賞する側が、不足する部分を補完するように努力すべきである。すなわち、芸術作品とは、現実には存在しない完璧なものを目指して、芸術家と鑑賞者が共同作業によって作り上げていくものである。くれぐれも、あら探しばかりする愚かしい批評家くずれに成り下がってはならない。

http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/nikki/2003_2.htm#000

カネゴンも、ネットの一角でときどき見かける「才能のある人には批評と称してどんなひどいことを言っても許される」みたいな雰囲気がどうにも恐ろしかったのだけど、この一文ですっきりした。長年の鼻づまりが治ったような心持【左右交互のおれカネゴン】。

このところ、ニコ動に大量にアップされている古武道の演舞を見ていたのだけど、何度見返しても、運動神経ヒエラルキーの底辺に位置するカネゴンには、ジャッキー・チェンの映画のような誇張のない地味なドキュメント動画からその凄さを感じ取ることがほとんどできないでいる。人は、自分自身よりも能力が上の世界については、その中での差異を見分けることはできないというのは本当であることを痛感【壷の底からおれカネゴン】。

総裁語録の一つが目に留まる【集中せぬとはおれカネゴン】。

「勝ってこそ正論は正論になる。負ければ正論もグチに聞こえる」

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kavach/sousai01.html#Anchor257931

つまり、まったく同じ文章であっても、それをどんな立場から書いたかによって、まったく意味が違ってしまうということになる。これと似た例として、エディ・マーフィーが黒人をネタにして笑いを取ることは許されても、カネゴンがまったく同じネタをぶちかましたら大変なことになってしまうというのがあったりする【ハルマゲドン引きおれカネゴン】。
機械翻訳がいつまでたってもものにならない最大の理由はこれであると考えてよいだろうか。