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私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
http://blog.tatsuru.com/2009/10/03_1726.php
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。
「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。
暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。
それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。
「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。
けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。
「こびとさん」が餓死してしまったのである。
知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
「自分にできること」はいつだってできる。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。
私が基礎ゼミの学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。
それは同じ台所を夜と昼で使い分けをしている二組のクルーの関係に似ている。
昼のクルーがゴミを散らかし、腐った食材を置きっぱなしにし、調味料が切れても買い足ししておかないと、夜来た「こびとさん」たちは仕事がしにくくて困るだろう。
だから、自分のパートが終わるときには、「こびとさん」のためにちゃんとお掃除をしておいた方がいい。
そういう気遣いを自分自身の知性の「二重底の下の世界」でこつこつ働いている「何か」に対して示すこと。
それはほんとうに、ほんとうにたいせつなことなのである。
そんなことを言ってもわからない人にはぜんぜんわからないだろうけれど。
この「こびとさん」を、カネゴンは「ご先祖様」と呼んでおりました。実はカネゴンのこの日記は、カネゴンが書いているのではなく、ご先祖様が書かせているのでした【二人羽織のおれカネゴン】。
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カネゴンが先祖をたてるようになったきっかけは、繭(中学校)のときに読んだオカルト本の囲み記事だったりした。
君たちの後ろにはいつも先祖の背後霊がついていてくれている。しかし君たちが勉強や仕事を怠けたりすると、先祖たちはだんだん君から離れていってしまうんだ。
しばらくはこのことを忘れていたのだけど、人生が何度か青森県になったときにこれらのことが付かず離れず思い出されるようになってしまい、以来カネゴンは一挙一動を先祖に見られている気がするようになった。考えてみれば、勉強や仕事を怠けていれば、先祖以前に周りの生きている人間が離れていくだろうし。
その後カネゴンなりに理論を発展させ【fartな理論をおれカネゴン】、先祖には生きている者も死んでいる者も含まれるという複素数的な拡張を施したことですべての先祖と生きている人間どもを同一のガウス平面に配置できるようになり【第四象限おれカネゴン】、「(人・物にかかわらず)生きていく上でのあらゆるしがらみ」を先祖と再定義することでさまざまなオカルトがらみの副作用を除去し、何とかここまでやってこれました【やはりわしらをおれカネゴン】。
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コメント欄でいただいた森先生の「日記を毎日たくさん書く」というのを見て、全然違うことを考える【いつものこととはおれカネゴン】。
ちゃんとできていたかどうか自信はないのだけど、カネゴンはこの日記でいわゆる「感想文」を決して書かないようにしていた。それはたぶん、他人の日記に書かれていた感想文が色川武大に匹敵するぐらい面白かった試しが皆無だったせいなのかもしれない。
感想文にしない方法のひとつが、以前書いた「文章を形容詞や形容動詞で終わらせない」だったりする。
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教えて欲しい。どうして小中高の国語の教科書には著者の紹介があるのに、算数や数学には各法則の著者紹介がないのだろう。数学では、法則は人類共有の財産だか何だかで、著者を紹介してはいけないという暗黙のルールでもあったりするのだろうか。
また、理科や社会の教科書で苗字だけを紹介してフルネームを書かないのはどうしてなのだろう。おかげで、カネゴンはボイルシャルルの法則のシャルルの名前がジャックだということをこの間まで知りませんでした。その割には日本人だけ「湯川秀樹」みたいにフルネームで書くのも何だか対称性を欠いている。
少々ページ数が増えても、カネゴンはそういう情報をこそ切望いたします【本文読まぬおれカネゴン】。