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「日本の電子音楽」というイベントを鑑賞【久々上京おれカネゴン】。職場を数年前にやめた知り合いが客席にいてのけぞる。帰り際に某編集学校の校長先生を見かけてずっこける。
一人、武満徹のだけめちゃくちゃうまいと思ったら、文楽の形式に物凄く助けられていることに途中で気付く。この型がなかったら果たしてこれほどの完成度になったかどうか。和の古典芸能の形式などこれまで気にしたことはなかったのだけど、「型」があるということは本当に有り難いことであること、型がなければ悲惨なことになることを十分に比較対照できた【なくて悲惨なおれカネゴン】。
- プログラムBは万博の時代で、ぐっと洗練度が増し、コラ率がアップし、音響もよくなる。「はしれちょうとっきゅう」や「インディアンがとおる」でお馴染みの湯浅譲二がフィーチャーされ、オノヨーコの最初の旦那でお馴染みの一柳慧の作品では初音ミクのおばあさんみたいなよぼよぼした合成音声が
演歌浪曲を唄っていた。坂本龍一のだけヒーリング音楽みたい。
どの電子音楽も、まだ見ぬ未来の音を必死でたぐりよせようとしていて心がほのぼのと温まる。そのせいで未来が早く来すぎて後の世代はいろいろとつらいことになっているような気がしないでもないのだけど【最もつらいおれカネゴン】。いずれにせよ、これら黎明期に開発された電子音楽の技法は今や万人共有の財産となり、MADテープや平沢MADやランランルーに結実したということでいいだろうか【一日一回おれカネゴン】。