音楽の三要素といえば「リズム」と「メロディ」と「ハーモニー」ということになっているのだけど、武満徹がちゃっかり構造を借用した文楽のおかげで、もっと大事な「メリハリ」という要素があることに今頃気付いた【気付いて終わるおれカネゴン】。
本来メリハリという言葉は音の高い低いを表すらしいのだけど、ここではどちらかというと「強弱」もっと広い意味で「強調」と「引っ込める」のこととして扱う。決して、単にボリュームつまみを上げ下げするだけの強弱ではない。
考えてみたら、日本の古典芸能にはハーモニーもなければ明確なメロディもなく、一定のリズム構造もないものがかなり多いにも関わらず、芸として成り立っている。それらの要素がなくても「メリハリ」さえあれば音楽(と広い意味での芸能)は成立してしまえるということでいいだろうか。極端な話、日本の古典芸能はメリハリだけでできている。
さらに、ガムランのように「一番重要な音を一番小さく鳴らす」という逆説的なメリハリの付け方すらある。
メリハリは第四の要素ではなく、むしろ三要素のさらに上位に位置する概念でないとおかしい。リズムもメロディもハーモニーも、メリハリを出すための手段であり、奴隷でしかない。
メリハリを違う言葉で言い換えると、「客を退屈させない」になる。
人間の感覚は、同じことを繰り返されると退屈を覚える。しかし、目先の出し物を単にすごい勢いで変えても、今度はそれ自体が一段階上の退屈を引き起こしてしまう。同じペースでだらだらと目先を変えるだけでは、人間の感覚には逆に単調さとなってしまう。
それの裏返しとして、人間の感覚は、繰り返しがまったくないと予測が立てられず、不安を感じてしまう。
むしろ、「客に次の出し物を予測させ、時にその期待に沿い、時にそれを裏切る」という方法論がもっとも成功しやすいような気がする【毎度裏切るおれカネゴン】。問題は、期待に沿うタイミングと期待を裏切るタイミングをどういう割合でミックスするかということに集約される。ここまで問題を固めておけば、後は物理学の問題になるのではないかという気がする【他人任せのおれカネゴン】。
実験物理学としては、リズムもメロディもハーモニーもあるのにメリハリがまったくない音楽と、そこにメリハリを極端に追加した音楽をそれぞれ製作することで確認できるはず。
最初に書いた「型」とは何かと言えば、結局「メリハリの型」なのだろうとカネゴン勝手に結論づけます。ソナタ形式も起承転結も何もかも。