脳のせいなのか何なのか、だまし絵などではない単なる絵であるもかかわらず、不思議に生き生きと動いて見えるような絵がある。カネゴンは昔の漫画しか知らないのでその範囲で書く。
手塚治虫は「僕は、動かないものを見るといらいらするんです」という言葉に表されているとおり、止まっているはずの絵を動かすこと、つまり生き生きとさせることに常に腐心し続けていた。そしてその代償でもあるかのように、色のセンスだけはまったく凡庸だったりした。
ついでながらカネゴンアイには、上田トシコの「フイチンさん」や、オリジナルの「ひとまねこざる」手塚治虫に負けず劣らず、もしかすると手塚治虫よりももっと絵が動いて生き生きして見える。
その逆に、絵を動かす気など毛頭ないのが水木しげるあたりで、昔の漫画はほとんどが両者の中間のどこかに位置していたという感じ。
今から思えば、大友克洋の絵が驚きだったのは、動いているものを徹底的に静止画像にしたところにあったのかもしれない。大友克洋の線そのものは少しも生き生きしていない(さらに色のセンスも手塚治虫と同じぐらいだったりする)のだけど、現実にはほぼ撮影不可能な、幅dt=ゼロの時間を捉えたかのような絵を描くことと、皺が多くて描きがいのある老人や描き込みがいのある瓦礫を描くことに執着した。
止まっているはずの絵が動いて見えるとき、おそらく脳のどこかがピンポイントで反応するはずなので、絵が動いているかどうかはそれをFMRIなどでみっちり検査することで相当客観的に判断できるようになったりしないだろうか【手術の台にはおれカネゴン】。