いわゆるネットワーク理論で、ノード同士のホップ数が6でたいていのものがつながってしまうみたいなことが言われているのだけど、カネゴンは逆に、6どころか3つ離れただけで、自分とは縁もゆかりもなさそうな人につながっていたりする「遠さ」の方が気になる【ネットの端にはおれカネゴン】。
言うまでもなく脳は巨大なネットワーク構造になっているのだけど、この遠さという特性があるがために、まったく相矛盾することがらを一つの脳にいくらでも問題なく収容できてしまうのではなかろうかと。隣同士のノードでは矛盾は痛みを発するのだけど、ちょっとノードが離れてしまえば互いに相当矛盾があっても痛くも痒くもなくなってしまう。また、そうでないと脳の情報収容能力はてきめんに下がってしまうはず。
脳が、それまで持っていた情報にきっちり整合する情報しか受け付けないとしたら、それはもはや脳たりえないし、例外的な事象に何一つ対応できなくなってしまう。矛盾を平気で受け付け収容する能力こそ脳の活力の根源でありネットワークの本質ということでよいだろうか。
だからこそその副作用として、たとえばニュートン錬金術にはまっていただとか、SS幹部がこれから処刑するユダヤ人音楽家に名曲を演奏させ、それに心から涙しただとかの矛盾に満ちたエピソードが起こりうるのかもしれない。
脳は矛盾をまずそのまま受け入れ、それらが後に配線の変化などで互いに距離が近くなったときに初めて悩みや苦しみが発生し、何とかしてその矛盾を解消しようとしてもがくのかもしれない。そしてどうにもならないときには、再びちょいと両者の距離を遠ざけてしまえばたちまち楽になり、どんな矛盾でも来るなら来いという感じで今まで通りの日常生活が送れるようになる【苦しうないのがおれカネゴン】。

同じように、自然言語の文法はどれもこれもどうしようもない矛盾を抱えているのが常なのだけど、脳がやさしくその矛盾を受け入れてくれているおかげで何とかやっていけてるのかもしれない。構文解析による機械翻訳がものになりそうにないのは、それが全体としてあまりに整合しすぎているからなのかもしれない。