カネゴンが繭(高校生)の頃、たまたまマーラーのテープ(「巨人」だったか「大地の歌」だったか)を貸してもらって聴いてみたところ、どこがどういいのかどうしても理解できなくて、その事自体にショックを受けて風景が斜めになってしまったことがあった【うんうん寝こむおれカネゴン】。
口から万国旗を延々と引っ張り出す手品師のように途切れなくフレーズを繰り出すバッハとも違い、ビゼーベートーヴェンのように即座に替え歌にできそうなキャッチーなメロディがあるわけでもなく、ドビュッシーラヴェルのように和声がかっこよく逸脱しているわけでもない【ないないづくしのおれカネゴン】。
それまでのカネゴンには「どんな音楽にも必ず理解できるポイントがあるはず」という根拠のない確信があったのだけど、その前の幼虫(中学生)のときに音楽の先生が聴かせてくれたフリージャズが1ミリも理解できなかったとき以来久しぶりにその信念をひっくり返され、マーラーはおろかロマン派全般から遠ざかってしまった。
それが、最近になってJaki Liebezeitを聴いていてなぜかマーラーのことを思い出してしまい、どちらも主にサウンドの良さ、音色の良さで持たせていることに気付いてやっと腑に落ちた【蓄膿治ったおれカネゴン】。せっかくの目玉要素に長年気付けず大変失礼しました。
というわけで、カネゴンの中ではアンビエント系の元祖はマーラーということで落ち着きました【萬世一系おれカネゴン】。調べてもいないのだけど、マーラー以前には、サウンド自体を鑑賞する音楽というものはなかったのではないかと。