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「ハッカーはクラッカーか」。この話題がハッカーの間で盛り上がったとき、カネゴンは「どっかで見たな、こんなこと」と思いつづけていたが、やっとわかった。これは「空手バカ一代」で、極真会館の初期に「空手家は暴れ者だ」と近所の人に決め付けられて生徒を引き上げられ、倍達が必死で「空手は暴力ではない!」と主張していた、まさにあれだ。
カネゴン定義によれば、武道とは「理性を持った暴力」で、「単なる暴力」と根本的に違うにもかかわらず、素人には区別しにくいという特性があると考えている。「理性を持った暴力」というのは誉め言葉だ。素晴らしいことだ。同じように、クラッカーとは「理性のないハッカー」と考えれば、すべては氷解する。見た目の区別のしにくさも一緒だし、どちらも出発点は同じという点も一緒だ。そういう意味で、すでにハッカー道というものはある程度形成されているし(ただ、まだ「道」という自覚はないと思う)、ハッカーの世界でも大小さまざまな流派と師匠が百家争鳴している。もちろん道場破りもいれば用心棒(ネットワーク管理者)もいる。コンピューター世界の大山倍達的史観。
あほなこと言っていると思うが、意外にハッカーと格闘家には共通点が多いのだ。自分の技だけを信じるというアイデンティティとか、いろんな格闘技の長所を取り入れるジークンドーのような鍛え方も似ている。極真の使徒たちが、万年塀に穴をあけたり水がめを割ったり車を飛び越えたりするのと同じように、ハッカーたちもいろいろ無茶したり、日常のセキュリティの穴を喜びを持って破る。ちなみに、カネゴンはジークンドーを「メタ格闘技」と定義している。ブルース・リーの当たり役「グリーン・ホーネット」でのカトーを指して「Kick like a Kato」とまで英語(の格闘技業界)で慣用句化しているが、それをもじれば「Hack like a Kato」となるだろうか(カネゴン説明長すぎ)。
不思議なもので、武道と同じく、凄腕のハッカーほど「自分は凄くない」「もっと凄い人がいる」と思っている。そいつを倒そうと思うかどうかは別問題だけど、これは間違いなくそうだ。ハッカーとは尊称で、でなかったらそう呼ばれてしまうもので、自分で名乗っては意味がないのだ(またハッカーはそういうパラドックスが大好き)。自分からハッカーと名乗る人に間違いなくろくなものはいないと、武道の観点からも納得できる。
その意味でもハッカー道の確立は急務である。当然「世界格闘技大会」に匹敵する会もとっくに催されている(ネット上で)ハッカーの、どこに行っても変わらないその生活スタイルは、ある意味常に山ごもりしているようなものなのだ。後は大山倍達に匹敵するスターが登場するのを待ちたい。誰にでもわからないとスターではないので。そして極真のような町道場をがんがん設立するのだ。牛のような暗号をも一撃で撃破するという伝説が必要だ。ブルース・リーのように圧倒的にかっこいい(見た目の問題ではなく)ハッカーの登場が必要だ。「キミも鍛えれば私のように(コンピュータに)強くなれる!」と布教に励むハッカーの導師が必要だ(おれカネゴンってば)。IT革命とやらでもっとも欠けているのがこの視点だ。通信教育で達人になれるわけがないのだ。