CAN(カン)の特集が永久保存版と称して掲載されていたRe-MIXという雑誌をなつかしさのあまり購入。カネゴンは昔から、音楽そのものより音楽にくっついてくる解説とかインタビューの方をついつい好んでしまっていたので、極端な話、音楽がなくても解説が面白ければいい【それが正体おれカネゴン】。カネゴンのやることなすことすべて偽物じみるのも、この姿勢が原因。

充実した静寂空間「テクノロジーの奴隷」状態から逃れるために。好対照な2つの世界。

ところで、日常的に飛び交う情報の密度をどこまで上げたら人間は物理的に耐えられなくなるのだろう。何となくだけど、徐々に密度が上がっていけば相当とんでもないところまで耐えられるのではないかという予感【予感はすれどもおれカネゴン】。

このところ「日英語表現辞典 (ちくま学芸文庫)」を読む。出版されたのが1980年(著者は既に物故)だけあって、70年代カルチャーの匂いが色濃く残っている。当時は新語だったのが今ではすっかり定着または衰退していたり、「スタグフレーション」や「トレードオフ」のように日本語にも溶け込んでしまったものなどがあって面白い。ときどき論旨がつながらなくなっているように思えるのは気のせいなのだろうか【貴様が言うとはおれカネゴン】。文章が女性問題に及ぶと途端に鼻息が荒くなる。

男性をa good sportと形容すると「気のいい奴」だが、女性をa good sportと形容すると「いい遊び相手」とまるで意味が異なる。だから女性にとっては喜んではいけない言葉なのである。

国際交換の催しの場で皆が民族衣装を着て出席する中、トルコ人だけがビジネススーツで参加し、その理由を「It conjures up an unregretted phase of our history.」と説明していた。このunregrettedは「失っても惜しくない(むしろ失われてよかった)」という意味だ。

最近はあまり流行りではないみたいだけど、お話作りの重要な基本パターンとして「予言が行われ、どんなにそれに抗っても最後にそれが的中する」というのがあるような気がする。繰り出される予言が次から次に外れるのに面白い話というのはありうるだろうか【暇さえあればおれカネゴン】。