たまたま見つけたAV監督の村西とおるのブログが半端でなく面白い【業界志願のおれカネゴン】。誤字脱字が目立つのが、逆に臨場感があったりする。漫画「ディアスポリス」に登場する山本(不法入国の中国人)のごとく、あまりに口がうまいので「日本の表AV業界にはヤクザとつながっているところは一つもございません」など、到底信じられないような記述も、ついうかうかと信じてしまいそうになるほど【暗示と闘うおれカネゴン】。
カネゴンの中でだけ通用する経験則として、アダルト業界からはなぜか名文家が出現しやすい(高橋がなり中野監督tagomagoさんリリー・フランキーなど)のだけど、仕事として休みなく女性をくどきまくるために言葉が鍛えられ、つやつやに磨かれると同時に、エッセイの重要なコツである「主流派気分を捨てる」という立場を自動的に獲得してしまうからなのだろうか。
もちろん寺田寅彦のように、おぼっちゃん育ちをベースとした主流派気分を保ちながら馬鹿っぽい名エッセイをものにできる人もいれば、ゲーテのようにしまいには首相になったほどの名エッセイストもいたりするので、主流派気分を捨てたところで名エッセイストになれるかどうかは誰も保証してくれなかったりするのだけど。

20年近くP-MODEL断ちしていた反動で、P-MODEL平沢進についていろいろ調べまくってしまう【ニコ動ジャンキーおれカネゴン】。

  • 「ジャズが嫌い(特にトランペットの音が嫌い)」:平沢進が影響されたジョン・ライドンも同じくジャズを憎悪する発言をしていて、二人の初々しさにカネゴン何だか親しみを感じてしまう。
  • 「ブルースが嫌い」:絶対にブルージーなフレーズを弾かないことに決めているとのこと。平沢進が尊敬するロバート・フリップがまったくブルースが弾けない(かつ嫌い)なせいなのかもしれない。なお、マンドレイク時代に1曲だけブルースを演奏した極めて珍しい音源をニコ動で見つけた。
  • 「アドリブが嫌い」:初代キーボードの田中靖美は弾くフレーズを完全に決めていた。セッションやアドリブが嫌いで、セッションをやるとたちまち飽きてしまったとのこと。
  • ピアノの音をまったく使わない。カネゴンの知る限り、ピアノの音らしき音が聞こえたのは、これまでわずかに2曲ほど(「オハヨウ」「Mercator」)、しかも単音のみをこっそりと。
  • スタジオミュージシャンが嫌い」:P-MODELのメンバーチェンジは、常に非スタジオミュージシャンに対してしか行われなかった。実際スタジオミュージシャンのほとんどは音楽が好きなのではなくて演奏が好きなだけだったりするので。
  • 実は初代メンバーを未だに愛している。初代メンバーの時代は(P-MODELの前のマンドレイク時代も含め)、毎週日曜に農工大で朝から晩まで練習していたそうで、アンサンブルの息が最も合っていた。
  • 「ギターが嫌い」平沢本人もギタリストであり、しかもリトナーよりもはるかにシャープなリズムで演奏できるほどの力量があるにもかかわらず、まったくそれを売りにしないどころか、下手をすると自分のうまさに気付いていない可能性すらある。
  • 「叙情だけしかない音楽が嫌い」:暴力的なものに叙情を混ぜたものでないと身体が受け付けないらしく、重症のプログレ患者であることがわかる。

平沢進がどこかでこんなようなことを言っていた。

マチュアですら今やハードディスク・レコーダーのチャンネルが16chになり、24chになり、たいそう便利な時代になりました。しかし、あえてそのうちの4chしか使わずに音楽を制作すると、なぜかとても良いものができるのでございます。

今気付いたのだけど、平沢進の口調だけは村西監督とそっくりだったりする。
シンセサイザーが登場したときにも同じようなことがあったのだけど、「何でもできる」とか「何をしても良い」などと言われると、かえって何をしてよいのかがわからなくなってしまったりする【わからぬままのおれカネゴン】。
このように自由度が高すぎる創作過程では、むしろ何らかの形で自分で自分に制約を与えることが極めて重要だったりする。「テーマを決める」というのも実は同じことで、創作のエネルギーが外向きに出現するときに、そこに何らかの非対称性を持ち込むことに相当する。
それと似たような現象として、自分一人の動機のみに基づいて何から何まで存分に作ったものより、頼まれ仕事でちゃっちゃと作り上げたものの方が後になってよい仕事になることがしばしばあったりする。
「何でもできる」「何でも弾けるように練習する」のように全方位的に表現の対称性が保たれてしまうと、結局そこには何の動きも生じない。そこに動きを生じさせるためには、対称性を自発的に破るか偏りを外部から持ち込むことが不可欠という結論でよいだろうか【そして寝るとはおれカネゴン】。

経済学の表面をどれだけなぞっても、力学における「力」に相当するものをどうしても見つけられずにいる【見落とし確定おれカネゴン】。貨幣とか生産物とか需要と供給のような個別のアイテムとそれらの関係を表す式はあっても、それらが変化するときに「どのような力によってどのように駆動されるのか」について納得のいく説明をまだ見つけられない。
とはいうものの、力学のアナロジーが単純に効くとも思えない。その力は重力や分子間力のようなものかもしれないけど、もしかすると遠心力やコリオリ力のような見かけの力かもしれないし、もしかすると悪霊の仕業なのかもしれない。今からでも遅くないのでどなたか見つけてください。

演奏している動画の音を消して映像だけを門外漢に見せ、退屈のあまりそこから退出するまでの時間を測定するとする。本当に優れたミュージシャンならば、音など出さなくてもその立ち居振る舞いだけで客を魅了できるはずなので、こうすることにより音楽の種類にかかわらず客観的にミュージシャンの価値を統計的に有意なものとして測定できたりしないだろうか。
惹き付ける力は、むくつけき男臭さであることもあればセクシーさかもしれず、はたまた何をしでかすかわからないほどの恐しさかもしれず、可愛らしさや愛嬌かもしれないのだけど、カネゴンの知る限り、見た目にこれらの要素を欠いたミュージシャンの出す音は、やはりその見た目と強く相関している【要素を欠いたおれカネゴン】。
同じように、舞台の役者の姿を消して声だけで測定することもできそう。なお村西監督はAV女優を選ぶ際には絶対に直接会わず、写真1枚だけで決定するとのこと。

Amazonで「今は買わない」リストにあったはずなのに間違えて上巻だけ買ってしまった【お主はやはりおれカネゴン】「物理学はいかに創られたか(上) (岩波新書)」に書いてあったことを珍しくちゃんと引用:

(物理学の)真実を理解しようとするのは、あたかも閉じられた時計の内部の装置を知ろうとするのに似ています。時計の面や動く針がみえ、その音も聞こえてきますが、それを開く術(すべ)はないのです。だからもし才能のある人ならば、自分の観察する限りの事柄に矛盾しない構造を心に描くことは出来ましょう。しかし自分の想像が、観察を説明することの出来る唯一のものだとは思えません。自分の想像を、真の構造と比べることは出来ないし、そんな比較が出来るかどうか、またはその比較がどういう意味を持つかをさえ考えるわけにいかないのです。
けれども、その知識が進むにつれて、自分の想像が段々に簡単なものになり、次第に広い範囲の感覚的印象を説明し得るようになると信ずるに違いありません。
また知識には理想的な極限があり、これは人間の頭脳に寄って近づくことのできるのを信じてよいでしょう。この極限を客観的心理と呼んでもよいのです。

絶対開けられない機械装置をその動きだけから中身を推測することが物理学だったりするという理解でよいだろうか。この辺の事情は、21世紀になった今どころかこれから先もずっと変わらなさそう。
逆に言うと、開けて理解できるものというのは、すべて人間が作ったものに限られてしまうような気がする【ねじを余らすおれカネゴン】。

超球理論

(重要なので珍しくタイトルをつける)
超球理論
かの超ひも理論に取って代わろうとする野心的な理論。数式を抑えた書き方になってはいるのだけど、実に説得力がある。またいつものように勘違いかもしれないのだけど、カネゴンは人間らしく、まずこの理論のどこか一つぐらいは何らかの本質を突いていることを即座に確信し、それからその理由を考えることにします【結局飛びつくおれカネゴン】。以下はまとまらないうちのメモ。
球という言葉が使われてはいるのだけど、この宇宙の基本構成要素が球であるかどうかというのは実はあまり重要ではなさそう。むしろカネゴンとしては「新エーテル説」または「(文字通りの意味での)ドミノ理論」とでも呼びたいところなのだけど、エーテルという言葉の古くささが誤解を招きそうなのも確かなので、著者に従って超球という言葉を使う。
理論の肝は、「真空とは(物質ではない)エーテルである」というもので、そのエーテルを構成している何物かが、(バネがついていてまた元に戻るような)ドミノ倒しのごとく、エネルギーを周りに伝え、それが粒子の運動のように見えるというもの。なので、次から次に点滅する豆電球が動いているように見えて実は動いていないように、素粒子は実は運動しておらず、エーテルの点滅が見かけ上粒子の運動のように見えていると考える。
というのも、カネゴン自身、ここで言及されている「真空とは(物質ではない)エーテルである」という考えにこれまで何度も取り付かれていたりするので【病気が治らぬおれカネゴン】。
この理論の1つの強みは、「素粒子は互いに区別できない」という基本的な性質を実に自然に説明できることにあるとカネゴン考えてしまう。素粒子は実は運動しておらず、実はエネルギーが移動しているだけなのだとしたら、そこに今ある素粒子Xが、さっきまですぐそばにあった素粒子Aと素粒子Bのどちらだったのかということは本質的に区別しようがなくなる。
もしエーテルの各要素が球状だとしたら、それが空間にぎっしりと詰まっていることになるわけなので、ケプラー以来の球の詰め込み問題的な理由によって、素粒子の運動の方向にわずかな非対称性が生じてしまうような気がする。この非対称性が存在するかどうかは実験で検証できそうな気がする。
あとこれはカネゴンの考えなのだけど、この新エーテルの濃度は宇宙の場所によってすごく異なるような気がする。もしこのエーテルが宇宙全体で同じ濃度で存在したら、今や復活の見込みのほとんどない絶対空間が再び出現してしまうことになり、都合が悪い。新エーテルの分布がひどくまばらだとしたら、そこはとりあえず無視できそうな気がする。実は、通常の物質の周りにだけこの新エーテルがひっそりと集まり、それを舞台として物質の様々な現象が発生していたりして。そしてそれが実はダークマターだかダークエネルギーだったりしたらどうしよう【どうもせぬとはおれカネゴン】。