前述のごとく"自然界"の事象(無機的なそれ)の中には、正規分布に従う数量の分布をとるものがあることが知られている。しかしそれは必ずしも"多数派"というわけではない。19世紀ではさながら「正規分布万能主義」といったものがまかり通っていたが、20世紀以降そういった考え方に修正が見られた。今日においては社会現象、生物集団の現象等々、種別から言えば、正規分布に従うものはむしろ少数派であることが確認されている。例えば、フラクタルな性質を持つ物は正規分布よりも、パレート分布になることが多い。

人間は自然界の事象とはちがって自分の意思をもっているため、たとえば、子供の成績などは決して正規分布にはならない[1]。

何らかの事象について法則性を捜したり理論を構築しようとしたりする際、その確率分布がまだ分かっていない場合にはそれが正規分布であると仮定して推論することは珍しくないが、誤った結論にたどりついてしまう可能性がある。

本当にその事象が正規分布であるかどうかは実際のデータから確認するしかない。十分というわけではないが、最低限、データの尖度と歪度を調べるべきである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A6%E3%82%B9%E5%88%86%E5%B8%83

色川武大はギャンブルの現場での体験から、最後まで「個人の運はトータルではプラスマイナスゼロになる」という考えにこだわり続けたのだけど、最晩年にはそれを「個人の運には、その先祖が蓄えた(または消費した)運も影響している」と新しいパラメータを見つけて、ベイズっぽい修正を施している。
そのうえで、たとえばチンチロリンや麻雀のように確率の絡むギャンブルは、大数の法則のような大局的な法則(それも自分で見つけたもの)に従うことを認めたうえで、一回ごとの勝負の局面での「運」の変動が重要であることを重要視し、極めて困難なはずの「その局面局面での運を測定する」という画期的な取り組みを行った末、「ツイていない人と逆のことをする」というメソッドを自分用に確立した。
そしてさらに、それを単に理論として保持するのではなく、ギャンブルの現場で「頭で考えなくても身体がそう動く」状態になるほど理論が自分の血肉になるまでは決して手出しをしようとしなかった。
アカデミックな数学と統計の知識をまったく備えていないにもかかわらず、それと同様の体系を手作りでこしらえたうえに、そこに誤りを見つけたら常に修正する姿勢を崩さなかった彼は、十分科学的であり、実験のセンスもあったと言ってしまってよいような気がする【気がするだけのおれカネゴン】。
でも色川武大が競輪と並んで最も愛好したという手ホンビキは、曰く「ジャンケンを複雑にしたような心理戦ゲーム」で、確率とはまったく関係がないものだったりするのだけど。

色川武大は自身の中で「自然律」を最上位のものに置いていた。
これは「自然界の法則」と同じものであり、「人はいつかは死ぬ」とか「いいことばかり起きることはありえない」とか「何かを得るには何かを失わなければいけない」とか「進歩することは終わりに近づくことである」とか「どんなことにでも終わりはある」とか、1+1=2のような、人間どころかエホバの神ですら変えることができないような、科学者を含めたいかなる人間でも屈服せざるを得ないような法則を指す。
そして、「文学とは、人間が(人智では越えられない原理原則に立ち向かい、そして)負けるプロセスを描くものだ」という極めて優れた文学の定義を得た。
なぜか色川武大はこの自然律に「愛」を含めていたりして、ぎょっとするのだけど。

逆に言えば、島耕作みたいに「勝ちを描写するもの」は定義上含められない。ちゃんと読んだことがないので恐縮なのだけど【殊勝なふりとはおれカネゴン】、島耕作は地位の上昇と引き換えに何かを失った気配がどこにもないところが、統計的にものすごく不自然な気がする。
対照的に、角川一族は彼らが得たものと引き換えに失った莫大なものごとがバランスシート上ではっきり示されていて、自然律に合致していることが確認される【因果応報おれカネゴン】。

kashinoさんによる「Outliers」の書評。

もったいぶらずにこの本の結論を書いてしまうと、次のようになる。

  • 持って生まれた数値評価可能な能力もある程度必要、しかしそれはあるスレッシュホールド以上に達していればよいだけである。
  • 生まれつきの才能以上に、以下の「環境と機会と決断と継続的努力のアマルガム」が重要である。
    • いつ生まれたか
    • どのエートスを持つ集団で生まれたか、どの家庭で生まれ育ったか
    • 一つのことについて10000時間の努力を続けたか
    • そのことは、自分の意志でハンドルできる自律的(autonomy)があり、創造性や工夫が必要な複雑(complex)さがあり、努力と報酬の間に直接的な関連性(a connection between effort and reward)があるか。つまり、そのことは意味のある(meaningful)仕事なのか。
    • そのことから取得できたスキルが、必要とされるドンピシャな時期に活用できるか
    • 偶然のキッカケを逃さず掴むことができるか
http://kashino.exblog.jp/7771399/

それとは別に関係ないのだけど、以下はカネゴンが今年の花見の席でJN師匠から聞いた話。

僕は東京オリンピックのときに通訳のバイトをしていたんだけど、あれは非常にいい現場だったね。何がいいかっていうと、オリンピックの現場で働いている人たちが一人残らず明確な目的意識を持っていたんだよ。この東京オリンピックを成功させたいっていう明確な目的をね。便所掃除のおばちゃんに至るまで、一人残らず、だよ。
あれに触れたとき、このイベントは間違いなく成功するって思ったね。これに限らず、事業を成功させるには参加者がこういう状態にならないとだめなんだよ。

果たしてさっき引用したメソッドは、便所掃除のおばちゃん達にそうした目的意識をもたらしてくれるものなのかどうか。